1-Paris Café



この度、パリにおいて“科学”と“哲学”と“生き方”を語るカフェ「サイファイカフェ・パリ(略称:パリカフェ)」を開くことにいたしました。これまで日本において「科学と哲学」(サイファイ・カフェSHE)、「生き方としての哲学」(カフェフィロPAWL)、「フランス語で読む哲学」(ベルクソン・カフェ)をテーマとして活動を続けて来ましたが、今回全く異なるセッティングで会を開くことによって新しい可能性が見えるのではないかと考え、開催に踏み切りました。 
初回は科学と哲学の関係について私見を紹介しながら、これからの方向性についても議論できればと考えております。このような試みに興味をお持ちの皆様の参加をお待ちしております。サイファイカフェ・パリの活動にご理解とご協力をいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

----------------------------------------------------

第1回 Sci-Phi Café à Paris


テーマ:  「科学と哲学の関係を考える」 
« Penser à la relation entre la science et la philosophie »

日時: 2017年9月2日(土) 16h~18h 
会場: Salle de Réunion (Rouge)
Le Bloc, Espace de Coworking
10 bis, rue du Sommerard, 75005 Paris



参加費: 一般 10€、学生 5€
(コーヒーが付きます)

(2017年7月14日)

----------------------------------------------------

第1回パリカフェのまとめ

最初はいつも波乱含みである。日本でサイファイ・カフェSHEを立ち上げた時のことを思い出す。あの時も一体どれだけの方がこのような試みに興味を示すのか、全く分からない中での開催となった。しかし、蓋を開けてみると予想を超えた方々が参加され、1日の予定を2日に増やさざるを得なかった。今回は、フランス在住の方にどのように情報を拡散するのかが分からずじまいであった。そんな中、日本パスツール財団にはフェースブックへの掲載を始め、情報を広めていただいた。改めて感謝したい。しかし、想定外のことが待っていた。一つは、開催前日と当日にかけて参加予定者が急用や体調不良で次々に参加できなくなったこと。それから、変換プラグを忘れ、バッテリーを気にしながらになったこと。ただ、最終的には会を無事に終えることができた。まさに奇跡とも言える船出で、これは何かの徴ではなかったのかという声も聞こえた。
今回のテーマは「科学と哲学の関係を考える」で、これまで考えてきたことについての現時点での総決算を話題とすることにした。イントロとして、いつものようにサイファイ研究所ISHEのミッションや活動を紹介した後、パリカフェを含めたカフェの活動の特徴を "collaborative effort to pursue truth" と考えてはどうかと提示した。カフェを始めた当初は、講師が話をした後に質疑応答があるという単純な構造だと思っていたが、後にその場に居合わせた人が共に考えるプロセスであることに気付いた。その中から真理を発見しようする営みと捉えると、気持ちの持ち方が変わって来るのではないだろうか。ここで言う「真理」は絶対的なものではなく、各自の発見した「わたしの真理」でよいだろう。そういうものが見つかれば、あるいはその切っ掛けが得られるとすれば素晴らしいことだと考えて、講師自身も参加している。
イントロのもう一つの話題は、最近興味が湧いている思考や意識や瞑想についてであった。これらのことは、何をする上でも重要になると考えるようになってきたからである。その内容はまさに「わたしの発見」とも言えるもので、自分の頭を整理する上でも、人の話を聴く上でも非常に役立っている。参加者はどのように受け止められたであろうか。
本題は、科学と哲学をどのように考え、両者の関係はどうあるべきなのかということであった。科学や哲学を定義することは、殆ど不可能に近い。ただ、これまでに指摘されている両者の根本的な違いについて、わたしが興味を持ったものがいくつかある。その一つが、「哲学は解決済みの問題についての科学だ」 という見方である。科学が解決された問題について扱うことはまずない。しかし、哲学ではそこに常にある問題について考えることが仕事だとしているのである。これを読んだ時、科学と哲学の違いが見えただけではなく、いかなる問題にも挑戦できるのだという力のようなものを与えられたように感じたものである。そのことは同時に、哲学には科学で言われているような進歩はなく、絶対的な解もないということを意味しているのだろう。もう一つの違いは、科学には証明が求められるが、哲学には実証は要求されないということ。哲学に要求されるのは論理性に基づいて得られた信念だという見方である。
この二つの例が示しているのは、人間に可能な思考の様式には異なるものがあることだろう。科学を経由してきた者として、科学の思考だけでは見えないものがあるのではないか、あるいは、自然を捉える時の豊かさが失われているのではないかと感じている。証明されないのであれば意味はない、というような言い方があるが、その背後には科学があることが見えてくる。 それでよいのだろうかという疑問が湧いてくる。これからあるべき姿は、両者の関係を和解させることではないだろうか。哲学が常に科学を見ているのに対して、科学はその根にあった哲学を見捨てているように見える。このような状況を考えると、科学の方が哲学を見直し、哲学が採っている見方を取り入れて科学のやり方や科学の成果を振り返ることが求められているのではないだろうか。しかし実際には、科学がそれを始める動機を見つけることが難しいので、哲学の方が働きかけなければならない。その橋渡しの役をするのは、科学を経験し、哲学を垣間見た人間が相応しいのではないかと考えるようになり、いろいろな活動を進めている。ただ、それをどのような形で行うのが有効なのかについては、これからも試行錯誤を繰り返す必要がありそうである。

これに関連する議論は懇親の会でも活発に行われていた。また、次回の情報拡散をどのようにするのか、あるいは、フランスで開くのだからフランス語でやってはどうか、などという声も聞こえた。いずれにしても充実した意見交換ができたのではないだろうか。週末のお忙しい中参加された皆様に改めて感謝したい。

参加者からのコメント

● とても講演の内容が充実している。解り易い説明のために自然に頭の中に入ってくる。自由で話し易い、楽しい雰囲気。私は血管専門ですが医学の人間にとってこういう話は非常に必要なものです。次回が楽しみです。フランスにいらっしゃる方、矢倉先生の話の2時間はあっという間に過ぎますが、記憶に残るものが多いので帰宅しても楽しい雰囲気です。専門はかまわず、一度このcaféにお立ち寄り下さい。心の中に充実した時間が感じられます。それにしても矢倉先生の知識の広さには驚きます。こういう方に直で教えを乞うというのは非常にラッキーだと思っています。では皆様、次のこのcaféでお会いしましょう。貴方の参加をお待ちしております。 
 
● 科学と哲学の関係を考える会の第一回は、先人たちの言葉に触れながら、どのような態度でこれを実践していくのかというところからスタートしました。これは、(技術や情報の)使い方を考え・知るという、哲学が科学を見つめる視点とも一貫しており、この活動自体にも当てはまるものとなっています。学問や職業が多様化・細分化するなか、それらの基盤となる社会全体がどのように豊かになるか、豊かにするかという、私たちの暮らしにも根付いていることを考える機会をくださる、身近な会でした。ありがとうございました。  


 フォトギャラリー




(2017年9月3日まとめ)



samedi 9 septembre 2017

上のまとめにある「わたしの真理」という表現について、コメントが届いた。「わたしの」とした場合、相対主義に結び付く危険性があるのではないかというものだ。誤解を避ける意味でも、言葉の中身をもう少しエラボレートしてみたい。

真理という言葉は科学でも使われるが、それはあくまでも仮のものとして考えられている。その仮のもの繋いでいくと最後には本当の真理に辿り着くという仮定がある。他方、真正の真理に近くはなるが、永遠にそこには辿り着かないという考えもある。これは科学の限界ではあるが、いまのところ最も優れた方法であると考えられている所以である。

その上で、絶対的真理を考えると、一時的である科学的真理を超えるものになるはずである。すなわち、それは科学を超える領域にしか存在しないことになる。絶対的真理は哲学、形而上学の領域にしか存在しないのではないだろうか。もしそうだとすれば、哲学者や形而上学者の使命は絶対的真理を求めることになるはずである。それが可能なのかどうかは別にして、個人的にはそこに向かい、その景色を見てみたいという気持ちはある。勿論、絶対的なものなど信じないという立場もあり得るだろう。

それでは、絶対的真理に辿り着くにはどのような方法があるのだろうか? 一つのやり方として、まず科学的な真理、あるいはある状況における真理を集めることがあるだろう。その仮の真理を集めた後に絶対に向けて飛翔することができると感じる時期が来ると想像している。その時に飛び立つための方法となるのが、形而上学の方法論の一つでもある瞑想である。その結果得られたものを論理性を基準にして再検討するという作業を繰り返すことになる。そして、得られたものが絶対的真理とするに値するのかの否かの判断の基準になるのは、形而上学の蓄積の総体の抽出物になるのではないだろうか。まだ、歩み始めたばかりなので、今のところ、このようなスキームを描いている。

さて、上のまとめに言う「わたしの真理」が相対主義に結び付くのかどうかという問題である。真理を各個人が自分の独断で決めるとすれば、その危険性もあるだろう。しかし、わたしの意図は上のスキームの中にある。すなわち、ここで言う「わたしの真理」は最初に集めるべき「ある状況における真理」を意味している。それは科学的真理に近いもので、個人の真理観に基づいて作られたものではない。したがって、相対主義の危険性は極めて小さいと考えている。寧ろ、絶対的真理に至る一ステップを構成するものになるだろう。勿論、上のスキームで絶対的真理に到達できるとした場合の話ではあるのだが、、、 ただ、そうでない場合でも、「わたしの真理」の集積は無駄ではなく、いろいろな局面で重要な役割を果たすはずである。

このステップをパリカフェでも行うことができれば素晴らしいというのが、上の表現の意図であった。勿論、他のカフェやフォーラムについても同様であることは言うまでもない。





Aucun commentaire:

Enregistrer un commentaire